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2012年四国史跡巡り(6日目その5:白峯寺・与島)
 その4の続きです。

49.白峯寺・・・香川県坂出市青海町2635。四国八十八ヶ所霊場・第81番札所。五色山の白峯に建つ寺。815年、空海が当山に登った際に如意宝珠を埋めたのが始まりといわれる(これは土地の神に許可をもらうための儀式、則ち地鎮祭だったと解釈されている)。その後、空海の甥(姪の子とも)・円珍の前に土地の神が現れ仏法を興隆するようとのご神託があったため千手観音像を彫像し本尊とした。
 保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇が1164年に崩御されると白峯の山頂に御陵が作られる。その後、兵火にあって一時衰退したが讃岐の大名となった生駒氏・松平氏の援助で再建している。
感想:ちょうど大河ドラマがやっていたので来てみた。

(七棟門)
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(香川県指定有形文化財・客殿)
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(護摩堂。お土産などが売っていた)
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(崇徳天皇の廟所・頓証寺殿。この後ろに崇徳天皇の御陵がある)
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(相模坊大権現。相模の大山にいたが、いつしか讃岐に移り住み崇徳天皇の守護神となった。夕方に豆腐を街まで買いに行くように言われた小僧を哀れに思った相模坊が京都まで運んで帰ってきたという伝説がある。地元では「さがんぼさん」と呼ばれている)
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(西行の像。西行が四国で修行した際に当地に立ち寄ったところ、霊廟に崇徳天皇が現れ「松山や 浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな」と詠んだ。そこで西行は涙を流しながら「よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ」と詩を返している)
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(源頼朝寄進の石灯籠。実際は鎌倉時代後期のものらしい)
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(本堂。ここも長宗我部元親の兵火によって焼かれたらしい。寺を焼くためにこんな高いところまで登ってくるとはご苦労なことだ。この本堂まではかなりの階段を登ってこないといけないため、お歳を召した方はきつそうだった)
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(大師堂)
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 これで本日、というか今回の史跡巡りはお終いTT 近くの瀬戸大橋に乗った。でも、帰る前に1つ寄りたいところが・・・。

・与島パーキングエリア・・・香川県坂出市与島町587。仮面ライダーBLACK RXの第33話「瀬戸大橋の大決戦」で、敵のクライシス帝国がここから出向していた船に爆弾を載せ瀬戸大橋を爆破し日本から孤立させクライシスランドを建設しようとした。馬鹿馬鹿しくも回りくどすぎる計画である。
 まあ、そんなわけですっかり変わってしまったとはいえ、ロケ地となったここに一度訪れてみたかったのだ。

(坂出方面を望む。橋の先に見えるのが讃岐富士・飯野山)
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(宇多津・丸亀方面を望む。右の島が牛島)
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 今度こそ終了。帰るのが面倒で一瞬そのまま北上して実家の鳥取県に帰省しようと思ったけど、仕事があるので休憩しながら愛知県に戻った。



今回の感想:長宗我部元親・バリィさん・八十八ヶ所と興味のあるものを満喫してきた。やっぱりいいよ、四国。食べ物旨いし見るところ多いし。また一年後に来るよ!

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by tikugo | 2012-05-03 18:00 | Trackback | Comments(0)
2012年四国史跡巡り(6日目その4:金倉寺・天皇寺)
 その3の続きです。

47.金倉寺・・・香川県善通寺市金蔵寺町1160。四国八十八ヶ所霊場・第76番札所。空海の甥(姪の子とも)・円珍誕生の地である。当寺は円珍の祖父・和気道善が建立し「道善寺」と名付けられたが、928年に醍醐天皇の命で地名を取って金倉寺となった。1558年、三好実休率いる三好軍が服属しない香川氏を攻めた際、この場所に陣を敷いている。
感想:東讃の有力豪族・寒川氏と香川氏の力を背景にした無量寿院が御開帳を巡って戦った寺だと思ってきたのだが・・・それは、さぬき市長尾東の宝蔵院だった。なぜ間違ったかというと、ここが「鶏足山“宝幢院”金倉寺」だったから。あと香川氏が金倉寺を支配したから、それとごっちゃになっていたようだ。そうだよな、寒川氏がここまで来るわけないよな・・・。

(入り口と手水舎)
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(伝教大師・最澄と弘法大師・空海を祀る大師堂)
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(訶梨帝母堂。鬼子母神を祀っている。鬼子母神は経典によって多少の相違があるが、鬼子母経によれば千人の子があったが、常に他人の子どもを殺して食べたため釈迦はこれを教化しようとその最愛の末子・愛奴を隠した。釈迦は悲嘆にくれる鬼子母を戒めて子を返し帰依させたという。手にざくろを持つ天女の姿をとり、産生と保育の神(ときには盗難除の守護)として信仰される)
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(本堂)
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(金箔と貼るとおかげがもらえる大黒天)
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(乃木将軍妻返しの松。陸軍の師団長として香川県に赴任した乃木希典は当寺を宿舎とした。ある時、妻が東京から面会に来たが会いもせずに追い返した。その時、妻は途方に暮れてしばらくこの松の下でたたずんでいたが、希典の覚悟を知ってそのまま帰っている。その逸話からこの名が付いている。現在のは二代目)
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(仁王門)
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48.天皇寺・・・香川県坂出市西庄町天皇1713-2。四国八十八ヶ所霊場・第79番札所。行基の開基。その後、荒廃していた寺を空海が再興し「摩尼珠院」と名付けた。1156年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に流され当寺で崩御されている。その後、二条天皇が崇徳天皇社を建て後嵯峨天皇が現在地に移転した。神仏分離令で摩尼珠院が廃寺となったが、高照院がここに移り「金華山高照院天皇寺」となっている。
感想:駐車場が狭い! 近くの住宅は違法駐車だらけだった。こんなに駐車場が狭い八十八ヶ所は初めてだった。場所柄仕方が無いんだろうけど・・・。
 例によってここも長宗我部元親が焼いたことになっているらしい。

(三輪鳥居。左の下乗と刻んである石は源頼朝寄進のもの)
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(本堂)
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(大師堂)
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(崇徳天皇を祀った白峰宮の拝殿)
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(御神木の楠木。樹齢約500年)
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by tikugo | 2012-05-03 16:00 | Trackback | Comments(0)
2012年四国史跡巡り(6日目その3:曼荼羅寺・甲山寺・讃岐甲山城)
 その2の続きです。

45.曼荼羅寺・・・香川県善通寺市吉原町1380-1。四国八十八ヶ所霊場・第72番札所。596年、空海の実家の佐伯氏の菩提寺として建てられた。807年、唐から帰国した空海が母の菩提を弔うため伽藍を建立し大日如来を祀っている。
感想:近くに西行の庵があるという案内が建っていたのだが、時間の都合で行かなかった。

(仁王門。山号の我拝師山(がはいしざん)ってインパクトがあるなあ)
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(本堂の旧棟瓦)
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(延命地蔵)
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(本堂)
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(大師堂)
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(香川県有形文化財・聖観音立像が安置されている観音堂。本堂の横に建つ)
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(笠松大師。ここには空海手植えの『不老松』があったが2002年に松食い虫のため枯れてしまった。そこで松の幹にこの像を刻んだ)
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(香川信景の重臣・三野菊右衛門の墓。お墓は通称・五輪さんと呼ばれている。菊右衛門は長宗我部元親の三男・親和が香川氏の養子に入った際に人質として土佐に行っている)
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(平安時代末に名を馳せた僧・西行が良く昼寝をしていたという伝承が残る昼寝石)
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46.甲山寺・讃岐甲山城・・・香川県善通寺市弘田町1765ー1。幼少期の空海がこの辺りで遊んでいたという。後年、空海が満濃池の工事を命じられた際に甲山の岩窟で成功を祈願し、数千人の人夫を使って3ヶ月余りで完成させた。そこで空海は感謝の意を込めて朝廷から賜ったお金の一部で甲山寺を建て薬師如来を安置している。
 背後の山は甲山城で、築城年代は不明だが香川氏の家臣で豪勇として知られた朝比奈弥太郎が築城したといわれている。1558年に三好氏が香川氏を攻めた際に190人も倒して戦死したという(弥太郎は土佐の人という説もある)。城は丸亀平野を一望でき、天霧城の出城としての役割を果たしていたという。

(山門。一の門かな?)
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(二の門?)
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(本堂)
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(毘沙門天の岩窟。空海が掘った毘沙門天の像が祀られている)
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 ここら辺から登ると城に行ける。

(曲輪跡だと思われる。お寺にはあんなに人がいたのに、城では行きも帰りも誰にも会わなかった)
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(本曲輪。碑には神武天皇と孝明天皇の名前が刻んであった。城趾碑もあるらしいが分からなかった)
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(丸亀平野を望む。正面の山が讃岐富士・飯野山)
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2012年四国史跡巡り(6日目その2:本山寺・勝間城)
 その1の続きです。

43.本山寺・・・香川県三豊市豊中町本山甲1445。四国八十八ヶ所霊場・第70番札所。本尊は八十八ヶ所では唯一の馬頭観音である。807年、空海が創建。当初は『長福寺』という名前だったがのちに『本山寺』に改められる。
 長宗我部元親が讃岐を攻めた際、陣を置こうとしたが住職が拒んだため兵が斬りつけた。しかし住職は無事で代わりに阿弥陀如来の右手から血が流れ落ちたので、驚いた長宗我部軍は退去している。以来、その阿弥陀如来は『太刀受けの弥陀』と呼ばれている。
感想:目的はもちろん太刀受けの弥陀。右手に傷があるらしい。

(国指定重要文化財・仁王門)
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(三豊市から満州を開拓に行ったが戦争のため犠牲になった人達を慰霊する仏堂)
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(善女龍王像が納められている鎮守堂。なぜか野良犬がうろうろしていた。観光客が多いのに危ないのでは・・・?)
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(大師堂)
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(四国八十八ヶ所霊場では4つしかないという五重塔の一つ。1910年に当時の住職が寄付を募って再建している)
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(空海が一夜に建立したという伝承が残る本堂。現在の本堂は京極氏の祖・佐々木氏信の寄進で建て替えられている。ここに太刀受けの弥陀があるらしいのだが、当然見ることはできない)
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(大門)
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44.勝間城・・・香川県三豊市高瀬町下勝間。築城年代は不明。香川信景の重臣・三野菊右衛門の居城だったと伝わる。現在は城山神社が建っており遺構はない。
感想:前日からの雨で地面がぬかるんでいた。

(城山神社の鳥居)
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(拝殿)
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(勝間城趾から北側を望む。右の山が天霧城だと思うのだが・・・)
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 この後は昼食。香川なので当然讃岐うどんです。調べていなかったので次の目的地までにあったお店に入ってみた。

(お店)
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(「かけうどん」「野菜のかき揚げ」「なすの天ぷら」のセット。丸亀製麺なんか行くと必ず頼む組み合わせ)
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2012年四国史跡巡り(5日目その2:伊予国分寺、脇屋義助・小川祐忠の墓)
 その1の続きです。

36.伊予国分寺・・・愛媛県今治市国分4-1-33。四国八十八ヶ所霊場・第59番札所。741年、行基が開山。空海が滞在した際に「五大尊明王」の画像を奉納している。南北朝時代には細川頼之の兵火によって、戦国時代には長宗我部元親の兵火によって建物が焼失したため荒廃したが、江戸時代後期に復興した。
感想:例によって元親に焼かれた伝承のあるお寺。

(参道)
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(握手修行大師。握手して祈ると願いが一つ叶うという)
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(本堂)
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(大師堂)
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(白皮松。日中友好協会会長が訪中の際に空海が修行した西安市から贈呈された種子を育てたもの)
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37.脇屋義助の墓・・・愛媛県今治市国分。1342年、不利となった南朝方の勢力を挽回すべく後村上天皇は新田義貞の弟・脇屋義助を伊予に向かわせた。しかし到着直後に病を発し国分寺で亡くなっている。廟堂は1669年に今治藩士によって再建されたものである。
感想:国分寺の近くにあると聞いたので参ってみた。義助の家臣は義助の死を北朝方に知られないようにするため、夜中にこっそりと墓参りをしていたらしい。

(廟堂)
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(表忠碑)
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(廟堂の後ろにある義助の墓)
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(国分城主・小川祐忠夫妻の墓(供養塔?)。周りは家臣のものだろう。関ヶ原の戦いで西軍を裏切ったことで知られる。義助の墓の後ろに建っていた)
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38.伊予国分城(国府城)・・・愛媛県今治市唐子台。築城年代は不明。村上水軍の村上武吉が築城したという。その前の南北朝時代から存在したという説もあるため、武吉は修築しただけと思われる。四国征伐後は小早川隆景・福島正則・池田秀氏・小川祐忠と目まぐるしく城主が変わる。関ヶ原の戦いで藤堂高虎に与えられると、高虎は発展の余地のない国分城を廃城とし今治城を築城した。その際に国分城の石垣を運び去ったという。
感想:前回は結局山頂が分からず仕舞いだったため、今回はじっくりと調べて行ったので辿り着けた。と言いたいところだが、本当は下調べも空しく場所が分からなかったため近所の方に聞いて何とか辿り着けた・・・。また行けないところだったよ。

(全景)
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(山頂。よう分からんことになってる)
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(山頂からの風景。晴れていれば海が良く見えると思われる)
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 本日はこれで終了。次の目的地である香川県に向かい夕食。香川の夜といえば、もちろん一鶴の骨付鳥。
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 その後、ホテルでゆっくりした。




本日の感想:バリィさんグッズ購入に必死であまり史跡巡りが出来なかった。というか二回も来ているので行きたいところがあまりなかった・・・。

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2012年四国史跡巡り(5日目その1:延命寺・今治城・猿飛佐助の像)
 2012年5月2日(水)、今日は今治市を廻るぜ! 大雨だけどテンションは高い。

33.延命寺・・・愛媛県今治市阿方甲636。四国八十八ヶ所霊場・第54番札所。720年、行基が建立した。弘仁年間(810~824年)、空海が嵯峨天皇の命で『圓明寺』と名付けられ勅願所となる。
 戦国時代、長宗我部元親の軍勢によって釣り鐘が強奪され船で運ばれそうになったが、鐘自ら海に飛び込んで利用されるのを拒否したという伝説が残る。
 何度も火災にあって建物が焼失し、1727年に現在地に移転した。近くにある第53番札所も「円明寺」のため勘違いされることが多く、明治に入って江戸時代からの俗称であった延命寺に改名しています。
感想:元親はこの辺りは攻めていないので、もしこの伝承が正しいのなら来島氏あたりが強奪していったと思います。その鐘は今でも瀬戸内海に沈んでいるようで寺にはありません。

(1704年に鋳造された梵鐘。墓地の横にある。太平洋戦争中、供出されそうになったが逃れている)
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(山門。今治城の城門の一つだったが、城が取り壊された際に移築された)
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(昭和になって鋳造された釣り鐘。山門を入ってすぐにある)
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(越智孫兵衛の墓。孫兵衛は七公三民で苦しんでいた村の窮状を見て藩に願い出て六公四民に年貢を下げてもらった。そのため享保の大飢饉でも餓死者が出なかった)
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(本堂。団体さんがいて賑やかだった)
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(大師堂)
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(大師堂の近くに建つ行基の供養塔)
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 この後はバリィさんグッズ購入のため今治市内を走り回った。が、それは史跡巡りとは関係ないので割愛。後日、それだけをブログに載せようと思っています。

34.猿飛佐助の像・・・愛媛県今治市北宝来町1丁目。今治駅のロータリーに建つ。立川文庫から出版された「猿飛佐助」の著者の一人・山田阿鉄の出身地が今治市だったため建てられた。
感想:バリィさんグッズ購入のついでに撮った。
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35.今治城・・・今治市通町3丁目1ー3。一回ブログに載せているので説明は省略。何かバリィさんグッズがないかな、と思って寄っただけ。

(駐車場から見た今治城)
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(築城奉行を務めた渡辺勘兵衛から名を取った勘兵衛石。正面の巨石がそれ。前回、これを撮り忘れたのも再訪した理由の一つ)
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(裏から見た鉄御門)
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(今治城と言えばこの構図かな?)
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(海水を引き込むための門である海水流入樋門)
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(いつ見ても立派な石垣と濠)
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 この後、今治はラーメンが有名らしいので駅近くのラーメン屋に行った。麺がソーメンみたいだったが、これが今治ラーメンだったのだろうか。

(お店)
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 その2に続きます。

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2012年四国史跡巡り(4日目その5:太山寺・円明寺)
 その4の続きです。

31.太山寺・・・愛媛県松山市太山寺町1730。四国八十八ヶ所霊場・第52番札所。587年、豊後の住人・真野長者が大阪に向かう途中、暴風雨にあったので無事を観音に祈ったところ高浜の岸に辿り着いて助かった。真野長者はその恩に報いるため豊後から大工を集めて一夜にして本堂を建てている。のちに後冷泉・後三条・堀河・鳥羽・崇徳・近衛天皇が十一面観音像を奉納した。戦国・江戸時代には松山市を治めた河野氏・加藤氏・松平氏の帰依を受けた。
感想:伊予湊山城の近くにあったので寄ってみた。ここはとにかく広く駐車場から結構歩いた。

(一の門)
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(金剛力士像が安置されている国指定重要文化財・二王門。本瓦葺)
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(納経所から本堂までかなり距離があるという八十八ヶ所では珍しいお寺。俺は御朱印を集めていないので寄らなかった)
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(大日如来)
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(三の門に続く階段)
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(国宝・本堂。1305年に松山を治めていた河野氏が寄進した。本尊の十一面観音像は国指定重要文化財)
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(鐘楼)
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(取りあえず突いてみた)
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(合格祈願でお馴染み(?)の聖徳太子堂)
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 ちょっと早いけどこれにて史跡巡りは終わり。さて買い物してホテルに帰ろう、と中心地に向かっていたら八十八ヶ所のお寺が見えたので寄ってみた。

32.円明寺・・・愛媛県松山市和気町1-182。四国八十八ヶ所霊場・第53番札所。730年頃、行基が創建。その後、空海が荒廃していた建物を整備した。鎌倉時代に度重なる兵火で衰退したが、元和年間(1615~1624年)に須賀重久の手で現在地に移転される。1636年、覚深法親王の命で再建され現在の寺号となった。
感想:駐車場と境内の間が道が狭い上に交通量が多かった。ここに左甚五郎作の龍があり、行ないが悪い人が見ると目が光るらしいが見るの忘れた・・・。

(仁王門)
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(マリア観音らしき像が刻まれているキリシタン灯籠。この地方では隠れキリシタンが多かったという)
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(大師堂)
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(中門)
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(本堂。1924年にシカゴ大学のスタール博士が遍路の最中、この寺で阿弥陀如来を安置している厨子(仏像・舎利・経典などを安置する箱形の仏具。多く正面に両開きの扉をつける)に慶安3年(1650年)の銘がある銅板納札を発見した)
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 今度こそ終了。その後、バリィさんのチーズケーキや夕食を買ってホテルに戻るとのんびりと過ごした。



本日の感想:今回は時間に余裕のある予定を組んだので一箇所をじっくりと見て廻った。明日はいよいよ今回のメインの一つ、今治市! バリィ! バリィ!

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2012年四国史跡巡り(4日目その4:伊予湊山城・港三島神社)
 その3の続きです。

29.港三島神社・・・愛媛県松山市港山町5。伊予湊山城の麓に建つ。河野氏の崇敬が厚かった。
感想:車で行けないことはないですが、途中で駐めて歩いて行った方が無難です。

(港三島神社)
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(社殿)
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30.伊予湊山城・・・愛媛県松山市港山町5。建武年間(1334~1336年)に河野氏が海上の守りのため築城した。1460年代に河野氏で家督をめぐる内紛が起きた際、予州家の河野通春が拠点としている。四国征伐で廃城となった。

(写真は入り口の説明版のはずなのだがご覧の通り登るのは無理。ここで諦めて帰った。石垣や曲輪跡などがあるらしい)
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(対岸の三津浜から見た伊予湊山城。港三島神社が左側に見える)
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(湊山(三津)の渡し。河野通春が利用したのが始めと言われ、江戸時代には松山藩によって管理された。現在は海だが松山市道の一部である。ここで船の方に「乗りたいなら乗っていいよ」と言われたが「いえ、対岸から来たので・・・」と断った。今、考えれば駐車スペースの多いこちら側に車を駐めて伊予湊山城などを回るのも一興だったかも)
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by tikugo | 2012-05-01 14:00 | Trackback | Comments(0)
2012年四国史跡巡り(4日目その3:伊予土居城・椿神社)
 その2の続きです。

27.伊予土居城・・・愛媛県松山市土居町1059。築城年代は不明。河野氏の分家で星ノ岡の戦いで活躍した土居氏の城趾。現在は万福寺が建っており遺構はない。
感想:カーナビが星ノ岡城からの史跡で住宅街を走らせやがったので運転に気を遣った。

(万福寺の山門)
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(万福寺の本堂)
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(近くの公園に建つ土居・得能勤王之碑)
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(同じ公園内に建つ土居通増供養塔)
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28.椿神社・・・愛媛県松山市居相2丁目2ー1。伊豫豆比古命・ 伊豫豆比売命・伊与主命・愛比売命を祀る。創建は2000年以上前と伝わる。廃藩置県で伊予国はここの祭神の一人・愛比売命から県名を取って愛媛県と命名されている。
感想:愛媛の神社と言えばここなので来てみた。あと宮司さんが長宗我部さんだし。

(鳥居)
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(楼門)
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(勝軍八幡神社。蒙古襲来の時、伊予の領主・河野氏が出兵して勝利を収めたので帰路に豊後の宇佐八幡神社を勧請したという)
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(御倉神社。宇迦之御魂神を祀る)
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(拝殿に行く途中の階段にあった。この後、バリィさんのチーズケーキを買うときにお世話になりました)
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(拝殿)
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by tikugo | 2012-05-01 12:00 | Trackback | Comments(2)
2012年四国史跡巡り(4日目その2:繁多寺・星ノ岡城)
 その1の続きです。

25.繁多寺・・・愛媛県松山市畑寺町32。四国八十八ヶ所霊場・第50番札所。天平勝宝年間(749~756年)、行基が『光明寺』を建立したのが始まり。空海が寺に逗留した際に『繁多寺』と改める。その後、一時衰退するが源頼義らの援助で復興。1279年には後宇多天皇の命で聞月が蒙古軍撃退を祈祷している。1288年、一遍が最後の遊行に出る前に3日間ほど籠もり亡父・如仏の追善のために三部経を奉納した。江戸時代には徳川家の庇護を受け栄えている。
感想:一遍と関係があると聞いて来てみた。

(山門)
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(境内)
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(本堂)
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(聖天堂。夫婦和合や商売繁盛などのご利益があると言われる歓喜天像が安置されている)
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(大師堂)
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(ここから見る景色がいいと聞いていたのだが、どこから見ても微妙だった・・・)
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26.星ノ岡城・・・松山市星岡町。後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けた伊予の土居氏・得能氏・忽那氏・大祝氏が挙兵した。1332年2月、長門探題の北条時直は討伐のため今治市に上陸したが敗退する。そこで翌月に星ノ岡城を占拠し伊予の連合軍と戦ったが、大敗し時直は身一つで撤退している。
感想:特に興味があった訳じゃないけど、何となく・・・。

(全景)
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(麓に建つ雲門寺)
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(山頂に建つ岡薬師堂)
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(山頂に建つ星岡表忠之碑)
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(他の方のサイトにはこの辺りが堀切と書いてあったが・・・俺の目にはただの道にしか見えなかった)
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by tikugo | 2012-05-01 11:00 | Trackback | Comments(0)