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2011年冬香川県史跡巡り(2日目その2:勝賀城・芝山城)
 その1の続きです。

17.勝賀城・・・高松市鬼無町佐料。承久年間(1219~1222年)、香西資村によって築城された。平時は麓の佐料城におり、勝賀城を詰の城としていた。十八代城主・佳清の時に長宗我部元親の讃岐侵攻が間近になったため、居城を藤尾城に移している。
 土塁・空堀などの遺構がある。
感想:2年前に来た時は時間が無くて登れなかったので今回は張り切って挑戦してみた。平地の多い香川県で標高364メートルはきつい・・・。道はあるものの本丸附近で急勾配になり滑りやすく捕まる木などもなかったため、登るよりも降りる方がきつかった。
 本丸は良好な状態で遺構が残っていた。

(本丸近くに残る土塁)
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(本丸にある碑と祠)
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(本丸全景。なぜかあった大量の丸太)
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(本丸の土塁)
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(登り口附近から見た瀬戸内海。右が屋島。左は女木島だと思う。海運を意識して築城されたのが分かる)
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(勝賀城遠景)
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18.芝山城・・・高松市香西北町。寛元年間(1243~1247年)に海上の警備のため、香西氏が築城し家臣の渡辺氏に守らせた。現在は埋め立てられて陸地となっているが、当時は島だった。1583年、小西行長が豊臣秀吉の使者としてやってきた際に、城主・渡辺市之丞は「すでに長宗我部を大将としている(この時、香西氏はすでに元親に降伏していた)。話を承る筋はない」と言って大砲で追い返している。
 現在は芝山神社になっている。
感想:本殿にハエが多かった・・・。

(入り口)
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(鳥居)
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(芝山城から瀬戸内海を望む)
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(勝賀城から見た芝山城。中央の丘が城趾)
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 ここで昼食。昨日に続き讃岐うどんにした。

(いろんなうどん屋に行ったが混んでいたので、チェーン店の「まるいち」にした)
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(しっぽくうどんと揚げ物。うどん屋に春巻きがあるのは初めて見た)
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 そのあと、高松の商店街に行って、くつわ堂の「長宗我部元親 オリジナル瓦せんべい」を買った。せんべいに家紋が入っていた。しかし香川県が本社なのに元親のせんべいっていうのも微妙だな・・・。
 ちなみに通販で買えます。

(瓦せんべい)
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 あとで食べたが噂ほど硬くなかった。せんべいってこんなもんじゃない?

 他にも廻る予定の史跡があったけど、疲れたのでやめた。高松駅前でゆっくりした後、岡山市に向かう。

(マリンライナー。名前は知っていたけど初めて乗車した。僅か1時間で岡山駅に着く。瀬戸大橋から見る景色が綺麗だった)
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 そして岡山駅に着くとバスに乗り換えて米子に向かう。さすがに中国山脈は雪が積もっていた。

(蒜山高原サービスエリア)
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 特に大幅な遅れも無く、無事に米子に到着。実家に戻った。

本日の感想:勝賀城で時間と体力を奪われた・・・。しかも疲れのせいで遺構の取り忘れも多かったし。ここのところ運動不足なので鍛え直さないと。

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by tikugo | 2011-12-30 18:00 | Trackback | Comments(4)
2011年冬香川県史跡巡り(2日目その1:三谷八幡宮・三谷城・三谷氏墓所)
 2011年12月30日(金)、高松市のホテルで目覚める。今日は疲れが取れていないので適当に史跡巡りをする。

14.三谷八幡宮・・・高松市三谷町。平安時代に八幡原の地の鬼門を守るために建てられた。永享年間(1429~1441年)頃、細川氏に仕えていた三谷城主・三谷景晴は禁裏に飛来した化鳥を射落とし兵庫頭に任ぜられた。景晴はその時の矢を当社に寄進している。1628年、三郎池の改修のため現在地に移転された。

(鳥居)
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(拝殿)
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15.三谷城・・・高松市三谷町竹林。植田氏の一族・三谷氏の居城。西に県下三番目のため池・三郎池があり、濠の役割を果たしていたと思われる(当時の三郎池の規模は不明)。三谷氏は寒川氏・香西氏に攻められながらも撃退し勢力を保ったが、大軍を擁した長宗我部元親には敵わず落城している。
感想:遺構がないため「ここら辺だろうな」と思って適当に撮った。

(城趾・・・だと思う)
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16.三谷氏墓所・・・高松市三谷町。三谷景晴と息子・景久の墓がある。

(三谷氏墓所の碑。右が景晴(兵庫頭)の顕彰碑で、左が墓所)
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(右が景晴、左が景久だと思われる)
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 その2に続きます。

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by tikugo | 2011-12-30 10:00 | Trackback | Comments(0)
2011年冬香川県史跡巡り(1日目その4:喜岡城・讃岐一宮城・讃岐鷲山城)
 その3の続きです。

10.喜岡城(高松城)・・・高松市高松町1727ー5。1335年に高松頼重が築城。しかし同年、足利尊氏に味方した細川定禅と戦い敗走し定禅に城を奪われた。のちに香西氏に属した高松氏の手に戻っている。
 香西佳清が長宗我部元親に降伏すると高松頼邑も長宗我部軍の一員となる。1583年に仙石秀久が攻めて来た際には撃退に成功したが、四国征伐で讃岐方面軍に攻められ落城。現在は喜岡寺となっている。
感想:3年半前の四国一周旅行の際にも来たのに再訪したのは唐人弾正片山志摩の墓を取るため。当時は誰なのか知らなくて高松氏の家臣だと思っていました・・・ーー;

(山門)
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(左から唐人弾正・片山志摩・高松頼邑の墓)
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(城址碑)
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(寺の裏に残る土塁)
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11.讃岐一宮城・・・高松市一宮町286。讃岐一宮・田村神社の大宮司だった一宮氏の居城。一宮氏は香川親和の讃岐侵攻の際に香西氏に属して伊勢馬場の戦いに参加している。城は現在の田村神社の西北にあったという。
感想:東かがわ市にある與田寺と同じ雰囲気がする・・・。こうなんというか・・・まあいいや、やめておこう。実家で岡山のチャンネルを見たら「初詣は田村神社で!」みたいなCMをやっていたのが印象に残っている。

(鳥居がど~ん。さすが讃岐一宮)
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(そして鳥居を潜ると布袋様)
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(本殿に向かう途中にいる八咫烏)
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(本殿)
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(龍)
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12.讃岐鷲山城・・・高松市国分寺町柏原。1368年に北朝方として活躍した藤原(新名)光業が築城。長宗我部元親が讃岐に侵攻すると新名氏は抵抗したが衆寡敵せず降伏している。その後、新名氏は元親に従ったが、要所の鷲山城を欲した元親によって誘殺された。
感想:遺構が無さそうだったので遠景を写して終了。

(鷲山城であっているはず)
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 ここで本日の予定は終了したのだが、まだ夕食には早かったため、観光に行く。

13.満濃池・・・仲多度郡まんのう町神野。821年、嵯峨天皇の勅許により空海が住民たちを指揮し僅か3ヶ月で完成させた日本一のため池。その後、武士の時代になると荒廃し池の中に村が作られたが、1625年に西島之友(八兵衛)が高松藩主・生駒正俊の命で復旧に着手し1631年に完成している。
感想:ちらっと見た後、疲れて寝てしまった・・・。池は空海が来る前からあったが、完成させたのは空海らしい。

(変な表現だが、写真にやる気が見られない。「はい、撮りました」みたいな感じがする)
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 疲れも取れたし、いい時間になったので夕食を食べに行く。夜も香川県の名物を食す。

(お馴染み、一鶴)
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(今回はおやどりに挑戦。歯ごたえのある大人の味。ひなどりの方が柔らかくて食べやすいけど、俺はおやどりの方が好きかな)
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 今日はこれにて終了。そのまま帰ろうかと思ったけどせっかく来たのと疲れでホテルに泊まった。明日も史跡巡りです。

本日の感想:詰め込み過ぎて疲れた・・・。

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by tikugo | 2011-12-29 20:00 | Trackback | Comments(0)
2011年冬香川県史跡巡り(1日目その3:石田城・国弘城・植田城)
 その2の続きです。

7.讃岐石田城・・・さぬき市寒川町石田東甲761。築城年代は不明。長宗我部元親の侵攻時には安富元綱(細川則弘とも)が城主だったが落とされている。現在は本丸跡が光明寺になっている。
感想:寺の周りには土塁や堀らしきものがあった。

(光明寺本堂)
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8.国弘城・・・さぬき市寒川町石田1928。応永年間(1394~1428年)に細川助弘が築城。末裔の国弘は織田信長・豊臣秀吉に仕えたという。1616年2月、真田幸村がここに逃れ細川氏に2年ほど世話になっている。幸村の息子・之親の娘は、国弘の孫を婿として迎え、孫は真田姓を名乗るようになったと伝わっている。遺構はない。
感想:ここは場所が分からずとにかく探し回った。近所の方に一緒に探してもらい、やっと見つかったよ・・・。お名前を聞くのを忘れましたが、本当にありがとうございました!
 細川氏は途中から国弘姓を名乗ったようだが、いつ頃からなのか不明。

(城址碑1。真田六紋会という団体が建てたらしい)
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(城址碑2。後ろに墓らしきものが見える)
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(真田氏が建てた神社だったと思う。城と関係があると近所の方が説明されていたのは覚えている。国弘城の南にある)
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9.植田城(戸田城)・・・高松市東植田町本村。築城年代は不明。植田氏の居城だったが、長宗我部元親に攻められ落城した。その後、戸波親武が城主となったが、四国征伐後に退去したため廃城となる。空堀・郭などの遺構が残っている。
感想:四国征伐の際に元親がこの城に讃岐方面軍を引きつけて殲滅しようとしたが、黒田如水に作戦を見抜かれたことで知られている。
 場所は分かりづらいが、近くの城集会所を目指して行くと良い。

(本丸跡)
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(堀切)
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(堀跡)
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(植田氏を祀る神社)
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 お腹が空いたのでここで休憩。昼食はもちろん讃岐うどん。

(行ったのは四国村にある『うどんのわら家』)
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(ぶっかけうどん)
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 その4に続きます。

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by tikugo | 2011-12-29 14:00 | Trackback | Comments(0)
2011年冬香川県史跡巡り(1日目その2:六車宗旦の墓・釈王寺・雨滝城)
 その1の続きです。

4.六車宗旦の墓・・・東かがわ市川東。宗旦は東讃を治めていた安富氏の重臣。長宗我部元親が讃岐に侵攻すると主君・安富盛定は小豆島に逃亡するが、宗旦は居城・雨滝城に残る。しかし抗しきれず降伏。そのまま在城を許されるが、秀吉の四国征伐で下野した。
感想:事前に準備をしている時に「お墓の場所、見たことがあるなあ」と思っていたら、梶原景辰の墓の横じゃないか・・・。よく調べていなかったために同じ場所に二度も行くことになってしまった。

(宗旦の墓。左にちらっと写っているのが景辰の墓)
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5.釈王寺・・・東かがわ市大谷329-2。真言宗。さぬき三十三観音霊場第五番。長宗我部元親が東讃に侵攻する直前、当寺の住職が元親の西讃での悪行を伝え東讃の諸将に降伏を勧めている。

(仁王門)
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(本堂)
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6.雨滝城・・・さぬき市大川町富田中。長禄年間(1457年~1460年)に安富氏が築城。以来120年の間、安富氏の居城であったが、1572年に安富盛定が虎丸城に移ると重臣・六車宗旦が入っている。四国征伐後に廃城になったと思われる。
感想:城内に車で入ったが、入り口を通りすぎてしまい諦めた。道が狭くてUターン出来るような状況じゃなかったし・・・。

(雨滝城遠景)
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 その3に続きます。

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by tikugo | 2011-12-29 11:30 | Trackback | Comments(0)
2011年冬香川県史跡巡り(1日目その1:昼寝城・大窪寺・大櫟城)
 2011年12月29日(木)、山陰帰省のついでに香川県に寄った。最近、讃岐の諸将に興味が出てきたので・・・。

1.昼寝城・・・さぬき市前山。東讃で活躍した寒川氏の居城。昼寝をしていても落ちないほどの堅城であることから昼寝城と名付けられたという。その名の通り、阿波の三好長治の二度の攻撃を退けている。当城を長治が攻めている隙に長宗我部元親は手薄になっていた阿波南部への侵攻を開始している。
感想:現地の案内板には「長宗我部元親によって落とされた」とあったが、元親は堅固なこの城を見て「こんな城、攻めるのは時間の無駄だ。他の城を落とせば自然に落ちる」と言って無視したはず。落とされた、というのはそのことを言っているのかな?
 工事か何かで入り口が閉鎖されていたため、遠くから眺めて終わった。

(元親が攻めるのが嫌になった気持ちが分かる)
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2.大窪寺・・・さぬき市多和兼割96。四国霊場第八十八番札所。行基の開基。空海が奥の院の岩窟で求間持の法を修め、お堂を建てたのが始めといわれる。百を越す堂塔があったが長宗我部元親侵攻の際の兵火で悉く焼失した。
感想:寺の案内通り「長宗我部軍の兵火で・・・」と書いたが、実際には1574年の三好長治による昼寝城攻めの際に雑兵によって焼かれていた(『長尾町史』より)。なので元親とは関係がない。
 そして元親の紹介はいつものようにぼろくそ。「土州の渠魁(盗賊、悪漢などの首領)」。相変わらずの人気だ。
 ここはお遍路で最後(結願)のお寺。お遍路をしている人がここに来ると感慨深いものがあるのだろう。

(仁王門)
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(山門。初詣の準備で忙しそうだった)
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(山門の龍)
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(本堂)
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3.大櫟城・・・さぬき市大川町田面。長宗我部元親が雨滝城攻略の際に陣営となった。現在の豊田神社の境内一帯だったと伝わっている。

(豊田神社。小高い丘に建っている)
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 その2に続きます。

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by tikugo | 2011-12-29 10:00 | Trackback | Comments(2)
伯耆米子城
住所:鳥取県米子市久米町

 戦国末期、出雲・伯耆の中心地は月山富田城であったが城主・吉川広家は山間部で不便な月山富田城より海に近い場所に城を築こうと考えた。広家が目をつけたのが、良港・米子港のある伯耆の最西端の米子であった。そこで港に近い湊山に城を築いたのが米子城の始まりである。
 だが広家は関ヶ原の戦い後、岩国へ転封されてしまう。その後に入ってきたのが、駿府城主・中村一忠である。伯耆米子18万石を与えられた一忠は全国から商人や職人を呼び寄せ、城下十八町といわれる町並みを完成させた。また家臣・横田内膳は加茂川を整備し、外堀にして、九つの寺を均等に設置し支城とする。1609年夏、一忠が死ぬと子がいない中村氏は断絶してしまう(実際は子供がいたのだが、後継ぎとして認められなかった)。
 次に米子に入ってきたのが美濃黒野城主・加藤貞泰であった。しかし貞泰は大坂の陣で手柄を立て、すぐに伊予大洲に転封された。
 そして次に米子を治めたのが、因幡・伯耆32万石の大名・池田氏である。米子城は家老の荒尾氏が代々預かることなり、米子は殿様のいない城下町となり、関所も設けらなかったことから商業が盛んになった。
 明治維新で米子城は士族に払い下げられるが持て余し、米子町(現・米子市)に土地・建物合わせて3500円で売却の話を持ち掛ける。だが、米子町の戸長達は
「米子の財政は維持に年間370円も要するような不生産的な尤物を買い取るほど豊かではない」
 と断る。結局は37円で建物は道具屋・山本新助に売却解体された。その後、木材は風呂屋の焚き木にされたという。

(米子城全景)
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(枡形の広場と虎口)
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(旧・小原家長屋門。小原氏は荒尾氏の家臣)
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(本丸の石垣)
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(鉄御門跡)
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(天守跡から米子港を望む)
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(左から池田由之・由之の妻・加藤光泰の墓。清洞院跡(現在は湊山公園)に建つ)
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コラム:広家と一忠の建てた二つの天守があった城でした。




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by tikugo | 2011-12-10 22:00 | Trackback | Comments(0)