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総寧寺(小笠原政信夫妻供養塔)
住所:千葉県市川市国府台3丁目10ー1

 曹洞宗。1383年、近江に佐々木氏頼が創建した。1575年、北条氏政が下総関宿に移したが関宿が水害に悩まされたため、1663年に現在地に移転する。江戸時代には全国の曹洞宗の支配権と10万石の格式を与えられた。明治時代になると大学校舎、陸軍用地となる。

(参道。里見城跡(国府台城跡)に移転したため、碑に「曹洞宗里見城跡総寧寺」と書いてあった)
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(本堂)
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(鐘楼門かな? 下だけ古くなって建て替えたのだろう)
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(市指定文化財の小笠原政信夫妻供養塔。政信は徳川家康の家臣で当寺が関宿にあった頃の領主であった。五輪塔としては関東で二番目の大きさらしい)
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感想:この前に参拝した船橋市の宝成寺からここまで無茶苦茶混んでて辿り着くのに時間がかかった。その後も千葉県内では渋滞に悩まされて思うように廻れなかった。後で関東の人に聞いたら千葉は道が限られている上に公共交通機関も東京ほどは発展していないから、いつも渋滞しているらしい。埼玉県と同じ感覚で行った自分が浅はかだった…。




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by tikugo | 2013-10-04 22:00 | Trackback | Comments(0)
宝成寺(成瀬之成(正成の次男)の墓)
住所:千葉県船橋市西船6丁目2ー30

 曹洞宗。創建年代は不明。徳川家康の関東移封の際、家臣・成瀬正成は下総葛飾郡栗原に4千石を与えられた。その際、領地にあった法城寺を菩提寺とし、寺号を姓の『成瀬』から一字を取り宝成寺と改名している。正成は関ヶ原の戦い後に移封されたが、領地は次男・之成が継ぎ当寺も菩提寺として残っている。

(鐘楼)
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(本堂。成瀬家が藩主だった栗原藩は1638年に断絶してしまうが尾張犬山に移った成瀬家との縁は続き、本堂を犬山城主・成瀬正泰が建立している。現在建っているのはその後に再建されたもの)
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(本堂の左脇の墓地を登ると成瀬家墓所に辿り着く)
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(墓地内には成瀬家の方の墓が建つ)
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(中央が成瀬之成の墓)
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感想:ここには犬山城主の墓もありました。




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by tikugo | 2013-09-29 22:00 | Trackback | Comments(0)
第一回 家康公検定 受付開始
 6月14日から第一回 家康公検定の受付が始まりました。締め切りは7月25日です。今までは岡崎家康公検定だったのが、今回から家康所縁の岡崎市・浜松市・静岡市で共同開催なので、一回目ということらしいです。
家康公検定

 今回は広く浅くという感じで前回よりは簡単そうなので受けようかな、と思っています。
 ちなみに4月に問題を投稿して記念品をもらいました^^; 採用されているかどうかは公開されないので分かりません。

(記念品)
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by tikugo | 2013-06-22 09:00 | Trackback | Comments(0)
史跡写真の提供について
 有料で史跡写真の提供を行なっております。ブログ・サイトに掲載してある写真で必要なものがございましたら、メールにてご連絡下さい。写真は掲載してあるWeb用ではなく、元データを提供いたします。金額についてはご相談させて下さい。
 写真提供については自己紹介の欄に載せていましたが、無料での提供や転載についての問い合わせが時々あるため、改めて掲載しました。

★サイト
 ○大坂の陣絵巻
 ○長宗我部元親軍記
 ○山中鹿之助物語
 ○名和長年戦記

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by tikugo | 2013-06-16 11:00 | Trackback | Comments(0)
「大坂の陣慰霊祭(399回忌)」(後半:羽曳野市内の史跡巡り)
 前半の続きです。

 慰霊祭が終わった後、時間があったので羽曳野市の史跡を見て廻ることにした。バス停が良く分からないし運動にもなるので歩いていくことにした。

史跡:石川
住所:大阪府柏原市石川町・玉手町、大阪府藤井寺市国分・道明寺周辺
解説:道明寺の戦い後藤又兵衛を撃破した徳川軍がこの川を渡って豊臣軍を攻撃した。火器が不足していた豊臣軍は苦戦し誉田辺りまで撤退している。
感想:玉手山公園からとにかく遠かった…。
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 道明寺駅を過ぎて次の目的地に行く途中、先月の道明寺合戦まつりに合わせて造られたワインがコンビニに置いてあった。買おうかと思ったけど、ワインは飲まないからやめた…。
 ひたすら歩いていて小雨も降ってきた頃、史跡に到着。

史跡:薄田兼相の墓
住所:大阪府羽曳野市誉田7丁目
解説:道明寺の戦いで戦死した薄田兼相の墓。1885年、広島藩にいた子孫(藩主の浅野家?)によって建てられた。おそらく薄田文右衛門の子孫だろう。
感想:国道170号沿いに案内があったことに初めて知った。

(案内)
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(墓)
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(大坂夏陣奮戦の碑)
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史跡:誉田八幡宮
住所:大阪府羽曳野市誉田3-2-8
解説:祭神は応神天皇。鎌倉時代から室町時代には幕府の保護を受けたが、戦国時代になると度々兵火にあった。その後、豊臣氏や徳川氏の保護を受け栄えた。

(鳥居)
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(参道)
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(誉田林古戦場碑。道明寺の戦いでは薄田兼相が境内に陣を敷いている)
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(拝殿。豊臣秀頼が八割ほど造ったが大坂冬の陣で工事が中止となる。後に徳川家光が完成させている)
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(本殿)
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 これで史跡巡りはお終い。大阪市内に戻ってご一緒して下さった方と居酒屋で歴史の話をずっとしていた。いや、関係ない話もしていたかな…。とにかく楽しい時間を過ごせた。

後半の感想:とにかく歩いて、飲んで、話した。疲れたので帰りの電車はずっと寝ていて名古屋に着くまで意識がありませんでした。とにかく充実した一日でした。
 慰霊祭で手を合わせた時、いろんなことが頭を過ぎりましたが、最初に浮かんだのはやはり長宗我部盛親毛利勝永のことでした。最後は亡くなられた全員の冥福を祈りましたが。

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by tikugo | 2013-06-01 20:00 | Trackback | Comments(0)
「大坂の陣慰霊祭(399回忌)」(前半:柏原市内の史跡巡りと慰霊祭)
 2013年6月1日(土)、大阪府柏原市の玉手山公園で行われた「大坂の陣慰霊祭」に参加してきた。
 これは豊臣・徳川両軍、そして民衆で亡くなった方を供養するのが目的で、去年も大阪市内で似たようなイベントがあったらしい。

 11時前に河内国分駅で知り合いと合流し食事を済ますと、慰霊祭の前にちょろっと史跡巡りをした。

史跡:後藤又兵衛基次奮戦之地の碑
住所:柏原市片山町
解説:道明寺の戦い後藤又兵衛がこの辺りで最期を迎え首を埋められたらしい。碑は1969年に建てられた。
感想:狭い路地にぽつんとあるとあるため非常に分かりづらい。すき家とジョイフルの間の道を北に行くとある。

(碑)
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 それから小松山方面に移動。急勾配でちと辛い…。

史跡:小松山古戦場跡の碑
住所:大阪府柏原市玉手町25
解説:道明寺の戦いの緒戦で激戦となった小松山の戦いの碑。この辺りが激戦地だったらしい。碑は1978年に建てられた。
感想:久しぶりに来たが当然ながら何も変わっていなかった。

(碑)
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史跡:小松山
住所:大阪府柏原市片山町1
解説:道明寺の戦いで後藤又兵衛が死守しようとした場所。今は住宅街となりこのような丘しか残っていないが、開発される前は南の玉手山周辺も含めて一帯が山だった。
感想:玉手山一号墳でもあるそうな。

(小松山)
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史跡:奥田三郎右衛門忠次の墓
住所:大阪府柏原市片山町1
解説:小松山の上に建っている。忠次は道明寺の戦いで戦死した徳川軍の武将。家臣5人の供養碑も建てられている。同じ場所に徳川軍の山田十郎兵衛の墓もあったのだが、すっかり確認するのを忘れていた…。

(非常に分かりやすい案内があった)
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(忠次の墓)
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(家臣5人の供養碑)
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 一通り見て廻ると、供養祭のある玉手山に移動する。かなりの坂道を登ると会場の玉手山公園の大坂夏の陣戦没者供養塔に着いたが、1時間ほど余裕があったため、久しぶりに玉手山公園を散策した。

史跡:後藤又兵衛基次之碑・ 吉村武右衛門之碑
住所:大阪府柏原市玉手町7
解説:後藤又兵衛と、戦死した又兵衛の首を隠した吉村武右衛門の碑。
感想:この辺りには人がたくさんいたので、もしかしたら供養祭に参加する人かもと一瞬思ったけど、よくよく格好を見たら柏原市のウォーキングイベントに参加している人達だった。その後、予想通り誰も供養祭には参加していなかった。

(後藤又兵衛基次之碑)
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(吉村武右衛門之碑)
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(後藤又兵衛しだれ桜。ご覧の通りの人だったのだが…残念)
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 その後は資料館などを見て時間を潰す。

(資料館の前に建っていた三天堂)
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(売店の近くにあった顔抜き看板の中に後藤又兵衛もあった)
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 それから大坂夏の陣戦没者供養塔に戻った。そこそこ人が集まっていた。50~60人くらいはいたかな。時間の13時半になると主催者の挨拶が始まり、続いて供養塔を建てた安福寺の住職さんの読経が始まった。




(読経中。供養碑は1700年前後に当時の安福寺の住職さんが尾張徳川家二代藩主・徳川光友の援助を得て建てている)
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(続いて焼香。私も加わった)
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 供養祭は30分ほどで終了。最後に主催者(主催が多くて、どの団体の誰が挨拶をしていたのか覚えていない…)が締めの挨拶をして解散となった。

前半の感想:地元のイベントという雰囲気が強く県外者はほとんどいませんでしたが、まあこれはこれで良かったんじゃないでしょうか。
 天気は曇りで日差しが強くなく、かといって雨も降らなかったので気候にも恵まれました。
 今後は毎年、6月1日に慰霊祭を行うらしいです。来年は日曜だからいいですが、再来年は平日なので気になります…。

 後半に続きます。

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by tikugo | 2013-06-01 14:30 | Trackback | Comments(2)
加賀の潜戸の観光遊覧船
住所:島根県松江市島根町加賀

 2013年5月5日(日)、加賀姓のルーツの一つと言われる松江市の加賀の潜戸に行って来た。去年の夏に行こうとしたけど車のトラブルで断念したので今回こそは…。取りあえず無事に到着。

(松江の市街地から向かう途中で見た日本海)
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(観光遊覧船が出航するマリンプラザしまね)
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 中に入るとゴールデンウィーク中なので結構な人が待っていた。13時50分頃に14時20分の出航便の受付を済ましたのだが、自分の後に来た人は14時20分の便に乗ることができず1時間後の便になっていた。危なかった…。

 ぼけっとしていたら時間が来たので救命胴衣を来る。

(救命胴衣って、たまに着るとワクワクするよね)
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(今回乗る船。漁船クラスか。揺れそうだな)
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 乗り込むといざ出発!

(桂島。本土から橋が架かっているので歩いて渡れる。中央の石垣は松江藩が整備したもの。ここ加賀港は島と半島に囲まれているため、時化の時は北前船が避難していたらしい)
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 桂島を眺めた後、旧潜戸に向かう。ここから本格的に船がスピードを出し始めて縦横に揺れ始めちょっとしたジェットコースター気分。いやあ、これが船の旅の醍醐味だよねえ~、と言いたいところだけど、結構恐かった…。
 10分くらいで旧潜戸に到着。ここは仏潜戸と呼ばれ、亡くなった子供達が夜に積むという石の塔が並んでいる。子供の魂が辿り着く場所と言われ毎年7月には霊を慰める行事が催されている。

(最初に遠くから眺める)
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(そして近くに上陸)
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(上陸地点から洞窟を通って旧潜戸に向かう)
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(中はこんな感じ)
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(中には所々にお地蔵さんがあり、そこには子供のおもちゃが供えてあった。亡くなった子供の親御さんが供えたものなんだろうか…)
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(洞窟を出ると無数の石塔があった)
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(奥にも石塔が…)
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(旧潜戸から日本海を望む)
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 写真を撮るなどしてもたもたしていたら船に戻るのが一番最後になってしまった…。走っていったので皆さんを待たせた訳じゃ無いけど、船の席が前の方だったため先に行くのにわざわざ立ってどいてもらった。すいませんでした…。

 そんなこともあったけど、とにかく船には間に合い新潜戸に向かった。ここから更に揺れ潮を被るようになったため、携帯(一応、防水)で撮影することにした。
 取りあえず無事に新潜戸に到着。ここは入り口が三つある洞窟で、伝承では佐太大神誕生の際に母神が弓矢を射通し「ああ、かかやけり」とつぶやいたことから、この辺りが『加賀』と呼ばれるようになったという。ここ潜戸には細川幽斎、小泉八雲、志賀直哉など著名人も数多く訪れている。

(新潜戸の入り口。ここから滴る水に触れると乳の出が良くなるらしい)
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(船で中に入る。写真では分かりづらいが神秘的だった)
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(出口。いや入り口の一つと言った方が正しいのかな)
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(母神が矢を射る際に的にしたという的島)
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 一通り見て廻ると加賀港に向かう。

(新潜戸の入り口。北にあるため結構な波に打ち付けられていた)
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 約50分ほどのクルージングが終わり無事に港に到着した。船とは縁のない生活をしているから、たまに乗ると非日常を味わえるからいいねえ~。

感想:島々で釣りをしている人が目立った。漁船で運んでもらって数時間ほど釣りを楽しんでいるんでしょうね。なんか優雅な趣味ですね。
 加賀は『かか』と読むのが正式らしいのですが、地元の人はほとんど『かが』と発音していました。本来は『かが』が正しいが、行政での表記上『かか』になっているだけかもしれません。




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by tikugo | 2013-05-05 14:00 | Trackback | Comments(0)
廿里古戦場(武田・北条軍激戦の地)
住所:東京都八王子市廿里町

 1569年、武田信玄は北関東に侵攻し武蔵滝山城に迫った。別働隊の小山田信茂も小仏峠を越えて滝山城に迫ったため、滝山城主・北条氏照が家臣の布施出羽守・横地監物・中山家範を出陣させたが敗走させる。余勢を駆って武田軍は滝山城を攻め落城寸前にまで追い込んだが、途中で小田原城に向かったため滝山城は難を免れた。
 この戦いで小仏峠を抑える重要性を感じた氏照が八王子城を築いたという。

(廿里古戦場跡。看板が立つだけで碑はない)
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感想:高尾駅から八王子城に向かう途中にありました。廿里は『とどり』と読みます。




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by tikugo | 2013-03-22 22:30 | Trackback | Comments(0)
八王子城(御主殿の滝・北条氏照の墓)
住所:東京都八王子市元八王子町3丁目

 北条氏照が1584~1587年頃に築いたという説が有力である。城が未完成のまま小田原征伐が始まり、前田利家・上杉景勝らの軍勢に1日で落とされた。
 現在は国の史跡に指定されている。

(入り口。日本百名城と刻んであるから最近建てられたのであろう)
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(トイレの近くに建っていた城趾碑)
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(城趾碑近くの南側の階段を降りて御主殿跡を目指す。最初にあったのが大手門跡。道は御主殿跡に続く大手道)
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(曳橋。当時は簡単な木橋が架かっており、非常時には壊して敵の侵入を防いだ)
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(正面から見た曳橋。当時はこの3分の1ほどの幅しか無かったという。橋の向こうに見えるのが御主殿跡)
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(石垣)
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(虎口)
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(冠木門。当時の復元ではない)
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(御主殿跡。南北40メートル・東西90メートルの広さで石垣が土塁に囲まれている。生活用品や武具は発見されたが、瓦が一枚も見つからなかったため板葺きの建物があったと考えられている)
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(御主殿の滝。落城の際に城兵や婦女子が自刃して身を投げたため、三日三晩赤く染まったとの伝承がある)
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 御主殿跡から本丸には直接行けないので、一回、城趾碑やトイレのある所まで戻ってそこから改めて登山。

(小田原征伐の際に近藤出羽守が守備したあしだ曲輪)
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(あしだ曲輪跡に建っている福善寺の観音堂)
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(小田原征伐の際に金子家重が守備した金子丸。今は本丸まで別の道もあるが当時はここを通る道しか無かった。この南側に遺構があったようだが見逃してしまった)
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(柵門台)
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(中の曲輪に建つ八王子神社。913年、修行中の僧の前に牛頭天王と八王子権現が現れたため、麓に八王子権現を祀った蓮華院を創建している。この伝承から氏照は城内に八王子権現を祀る当社を建てた。八王子という地名はこの権現の伝承から来ている)
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(小田原征伐の際に中山家範が守備した松木曲輪。家範は前田利家の軍勢相手に奮戦したが防ぎ切れず戦死した。その勇戦を聞いた徳川家康が遺児を召し抱えている)
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(小田原征伐の際に横地吉信が守備した本丸跡。当時、城主の氏照は小田原城にいて不在だった)
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(北条氏照の墓(中央)。1689年、氏照の百回忌に旧臣・中山家範の孫で水戸藩の付家老だった信治が建てた。右は家範の墓、左は信治の墓)
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感想:土日祝のみ高尾駅から入り口までバスが出ています。平日でもバスで八王子城跡入口の信号までは行けますが、そこから結構歩きます。まあ、そこからの登山に比べたら大したことはないですが…。
 そういえば中世の関東の城で石垣があるのを見たのって、ここが初めてかも。




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by tikugo | 2013-03-21 21:00 | Trackback | Comments(0)
極楽寺(玉田院の墓・長田作左衛門の墓)
住所:東京都八王子市大横町7-1

 浄土宗。1504年、鎮誉即也によって滝山城下に創建された。滝山城主・北条氏照が居城を八王子に移すと当寺も移転されたが小田原征伐の際に兵火で焼失する。その後、八王子周辺の代官となった大久保長安が当地に再建した。
 本尊の阿弥陀如来像は八王子市の有形文化財に指定されている。

(山門)
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(本堂)
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(墓地の一角に建つ仁科盛信の娘・玉田院(小督)の墓。武田家滅亡の際、武田信玄の四女・松姫と共に八王子に逃れ、長ずると大久保長安の助力で玉田院を建立し住した。墓は玉田院跡にあったが1715年、盛信の子孫・資真が現在地に移している)
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(山門から本堂に行く途中の参道脇に建つ長田作左衛門の墓。作左衛門は八王子の町割りを担当したといわれているが否定説もある。写真は1852年に親族が建立した供養塔)
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(鐘楼と門)
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感想:大久保長安は武田家の関係者に救いの手を差し伸べていたのですね。八王子市に行ってイメージが変わりました。




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